私はどちらもそこそこに好きなので楽しく祭りをみていたのですが(某動画に「泣けるアイマス」タグをつけたのは私です、ごめんなさい)、そのようななかで一つの動画が。
む、これは素晴らしい。これについて何か書かねば…と思っていたところ、続編もアップされていて、感想を上げる必要を感じて急いでいるというわけでございます。
私はボーカロイドに関しては殿堂入りクラスのものしか見たことがありませんが、「ココロ」はリンを代表する作品だと思いますし、対するアンサーソング「ココロ・キセキ」もかなりの名曲です。おなじVoc@loidM@ster祭りでも、別のPがそれで作成されていました。と、矢夜雨(やよう)P自身により「ココロ・キセキ」版も作られているではありませんか。早速見てみようと動画をクリック。深夜にぐずぐず泣いている私。む、3作目もあるだと…! 続けてクリック。
………
……
…
絶句。
うまく言語化できない。何から書けばいいのかわからない。「ココロ」について書こうと思っていたことがすべて吹き飛んでしまったようで、さあ、困った困った。
*
元来、ボーカロイド界とニコマス界は姉妹であったように思います。ボーカロイド作品の作者が「○○P」を名乗るのもその名残かと。ただ、はや1年以上が経過して、ボカロはDTMとしての本領を発揮しつつ新しい作曲者の表現の場としての可能性を高めていき、ニコマスは裾野を広げつつヴィジュアルエフェクトを追求しながら、固定ファンの深さに収束するという、独自な進化をとげていったように思います。
そこで原点に立ち返ってのコラボ祭り。背景には交流スレの存在などあったらしいですが、私は完全に見る専の立場から、ニコマスMAD寄りの視点で。
作者の矢夜雨(やよう)PはボーカロイドとのコラボMADも作られているようですが、一番印象的なのはやっぱり【アイドルマスター ~Nicom@s Crazy Box!~】ですよねw かなりの問題作でありながら、ニコマスMADの有名どこを網羅してしまい、かつ物語が形成されているという、恐るべき作品です。
そんな矢夜雨Pの作った「ココロ」。元からこの曲はかなり好きで、手描きによる美しいPVも作成されていて、かなり泣いた覚えがあります。ということで、楽しみにしながら動画をクリックしました。第一印象は、衝撃的。これは何らかの感想を書かねば、とつらつらと考えていました。
まず、歌っているのがリンレンということで、中の人つながりで亜美/真美を使うのは予想されることですよね。出演しているのは春香・千早・やよいの3人で、そこがまず意外。そして、歌詞の内容から近未来的なメカっぽい要素がPVに現れてくるのも連想できるところ。しかし、この2つは「ココロ」PVにはでてきません。また、原曲のPVに使われた英詩も登場していません。これは原曲PVの重要な「泣き」の部分であるわけで、これを外してくるのは想定外。でも、それをあえて外しながらも演出力が高いと感じさせられる、ガチMADだと感じられます。
ボカロ組みに比べて、ニコマスのアドバンテージとして、キャラクターが動く映像を使えるということで、ヴィジュアル的に表現力のある映像が作りやすいというのはあると思います。つまり、曲の持つ個性に対して、衣装・表情と踊りでそれを表現することがニコマスのお家芸というわけですよね。この「ココロ」に関して言えば、そういったアドバンテージをフルに活用して、「『ココロ』のPVをアイマスで再現したらこんな感じ」というものを充分に魅力的に、印象的に表現しているというわけです。
ニコマスコラボMADの本来の性格として、アイマスの公式曲CDでアイドルたちがカバー曲を歌ったことに呼応した形で、有名な曲とアイドルの映像を組み合わせた表現を得意としています。これはまさにそんな視点に立って作られたもの。曲の歌詞自体は寂しげなものですが、曲調は明るく、それだけに歌詞にでてくるボーカロイドをイメージした主人公の無垢さと純粋さが表現され、涙を誘うように思います。そんなイメージにぴったりの配役なんですよね。主人公がロボットだとかそうでないとか、そういう予備知識に関係なく、まさに「ココロ」をやよいが歌ったらこんな感じ。
ただ、シンプルな作りの中にも技巧は凝らされています。既存のダンスの組み合わせによるシンクロの再現とリップシンク、転調に合わせたカメラワークと、やよいの表情のチョイス。加えてサビ部分での過剰すぎない手描きエフェクトの付加。むむ、インパクトがあるなー。
それだけでは終わりません。色調も丁寧に調整され、サイバーな曲調にファー素材のセピア色の衣装を合わせることでノスタルジックな雰囲気を喚起させ、視聴者が過去を連想するような示唆も行われています。これは、「ブレードランナー」に代表されるようなサイバーパンク、あるいは近年だと「電脳コイル」で使われた手法を踏襲しているのかもしれませんね。
たったこれだけの工夫で(ニコマスのナレッジフル活用ともいいます)、未来に目を向けつつ、過去を思うという心情を理解させ、時の流れの大きさを演出している。これは芸術点高いですぜ、ダンナ。
また、マイリストの作者コメントで気づいたのですが、曲の最後数フレームに仕込みが。曲自体はある意味悲しい結末を迎えるのですが、このMADにはそれを踏まえた上での救いが控えめに加えられていますよね。そこもポイントだ。
*
そんなことを書こうかと考えながら見つけた、ひっそりとあげられた「ココロ・キセキ」。おお、すでに祭りは終わってしまったのに、こっちも作ったのか、と思わずポチリ。
これはやばい。「ココロ」PVもいくつか見て、「ココロ・キセキ」のPVもいくつか見て、先の矢夜雨版「ココロ」も「綺麗に作ったなぁ…」という感想で冷静に見られていたはずなのに、このアンサーソングであるところの「ココロ・キセキ」では涙を抑えることができない。
手法は先の「ココロ」と同じはずなのに、繰り返しによるフィルターが自分の中にあるのか、歌詞の内容がダイレクトに自分の中に入ってくるんですよね。
思うに、「ココロ」は叙事詩、「ココロ・キセキ」は抒情詩。純粋無垢な存在を作ったその孤独な科学者が、自分の孤独さを思いながら孤独を知らない存在を作り、彼女が孤独を知ることで得る結果を知りながらも「ココロ」を得るヒントを与えざるを得なかった心情がここにあります。
一抹の申し訳なさを感じながら、でも幾百の時を越えて、「キセキ」によって物語りに救済が生まれるわけで。
だーかーらー、泣くんだってば、こういうのを見ると!w
「Planetalian」で身も世もなく号泣した私は、こういうの本当に弱いです。ロボットに心なんて生まれるわけないじゃん、と思いながらも、「2001年宇宙の旅」のHALのように、意思を持つロボットというテーマは幼い記憶を呼び起こして心に突き刺さるわけなんですよね。心を持った存在が目の前で朽ちていく。それを見ながら流す涙に、それを止める力はないものか。止まる言葉。セピア色の記憶。消える心音。
*
動画につけられたコメントを見たら、どうやら3部作らしいじゃないですか。お、早速見にいかねばと。
でも、あれ?「ココロ」「ココロ・キセキ」に続編なんてあったっけ?
おおおおおおおおおおおおお
そうか!そういうことか!
これはいや、かなり、しかし…
作られたものの思いを感じ、作ったものの心情を知ってきた。しかしそれらは表裏を形成するもので、その時点での融合はない。なぜなら、「思い」が分からなかったからこそ時の流れと物語が生まれたのだから。
2つの物語を終えた時点で、時はまた戻る。重ねられた思いが浮かび上がり、思いが届く。
収束、光、昇華。なぜか涙が止まらない。3度目に起こったのは、まさに「ココロ」が溢れ出す「キセキ」。そんな奇跡が、抑えていた表現の解放により視聴者を充足するわけです。
物語は終わる。思いの発信者はひっそりと消える。でも、その思いは確かに我々の心に残るわけです。4度目はいらない、もう私達は満たされたのだから。再び消える心音、暗転、幕。結末は同じでも、そこに感じる思いは遥かに違う。
いやー、これはすごいものを見た。楽しめた。1作目で過不足なく表現しているな、と思ったら、「ココロ」にまつわる派生すらも作品を重ねることで表現してしまうとは。ニコニコの魅力って、こういう部分にもあるんですよね。なにげない善意で思わぬハプニングとして表現の広がりが生まれるという。そんな感動を再びトレースできたというわけです。
ニコマスとボカロはあまり交流することは今ではなくなってしまいましたが、1作目の「ココロ」を見て何かを感じたら、この連作は見ないと損! アイマス厨を名乗るなら、押さえておくべき逸品ですよ!
元来、ボーカロイド界とニコマス界は姉妹であったように思います。ボーカロイド作品の作者が「○○P」を名乗るのもその名残かと。ただ、はや1年以上が経過して、ボカロはDTMとしての本領を発揮しつつ新しい作曲者の表現の場としての可能性を高めていき、ニコマスは裾野を広げつつヴィジュアルエフェクトを追求しながら、固定ファンの深さに収束するという、独自な進化をとげていったように思います。
そこで原点に立ち返ってのコラボ祭り。背景には交流スレの存在などあったらしいですが、私は完全に見る専の立場から、ニコマスMAD寄りの視点で。
作者の矢夜雨(やよう)PはボーカロイドとのコラボMADも作られているようですが、一番印象的なのはやっぱり【アイドルマスター ~Nicom@s Crazy Box!~】ですよねw かなりの問題作でありながら、ニコマスMADの有名どこを網羅してしまい、かつ物語が形成されているという、恐るべき作品です。
そんな矢夜雨Pの作った「ココロ」。元からこの曲はかなり好きで、手描きによる美しいPVも作成されていて、かなり泣いた覚えがあります。ということで、楽しみにしながら動画をクリックしました。第一印象は、衝撃的。これは何らかの感想を書かねば、とつらつらと考えていました。
まず、歌っているのがリンレンということで、中の人つながりで亜美/真美を使うのは予想されることですよね。出演しているのは春香・千早・やよいの3人で、そこがまず意外。そして、歌詞の内容から近未来的なメカっぽい要素がPVに現れてくるのも連想できるところ。しかし、この2つは「ココロ」PVにはでてきません。また、原曲のPVに使われた英詩も登場していません。これは原曲PVの重要な「泣き」の部分であるわけで、これを外してくるのは想定外。でも、それをあえて外しながらも演出力が高いと感じさせられる、ガチMADだと感じられます。
ボカロ組みに比べて、ニコマスのアドバンテージとして、キャラクターが動く映像を使えるということで、ヴィジュアル的に表現力のある映像が作りやすいというのはあると思います。つまり、曲の持つ個性に対して、衣装・表情と踊りでそれを表現することがニコマスのお家芸というわけですよね。この「ココロ」に関して言えば、そういったアドバンテージをフルに活用して、「『ココロ』のPVをアイマスで再現したらこんな感じ」というものを充分に魅力的に、印象的に表現しているというわけです。
ニコマスコラボMADの本来の性格として、アイマスの公式曲CDでアイドルたちがカバー曲を歌ったことに呼応した形で、有名な曲とアイドルの映像を組み合わせた表現を得意としています。これはまさにそんな視点に立って作られたもの。曲の歌詞自体は寂しげなものですが、曲調は明るく、それだけに歌詞にでてくるボーカロイドをイメージした主人公の無垢さと純粋さが表現され、涙を誘うように思います。そんなイメージにぴったりの配役なんですよね。主人公がロボットだとかそうでないとか、そういう予備知識に関係なく、まさに「ココロ」をやよいが歌ったらこんな感じ。
ただ、シンプルな作りの中にも技巧は凝らされています。既存のダンスの組み合わせによるシンクロの再現とリップシンク、転調に合わせたカメラワークと、やよいの表情のチョイス。加えてサビ部分での過剰すぎない手描きエフェクトの付加。むむ、インパクトがあるなー。
それだけでは終わりません。色調も丁寧に調整され、サイバーな曲調にファー素材のセピア色の衣装を合わせることでノスタルジックな雰囲気を喚起させ、視聴者が過去を連想するような示唆も行われています。これは、「ブレードランナー」に代表されるようなサイバーパンク、あるいは近年だと「電脳コイル」で使われた手法を踏襲しているのかもしれませんね。
たったこれだけの工夫で(ニコマスのナレッジフル活用ともいいます)、未来に目を向けつつ、過去を思うという心情を理解させ、時の流れの大きさを演出している。これは芸術点高いですぜ、ダンナ。
また、マイリストの作者コメントで気づいたのですが、曲の最後数フレームに仕込みが。曲自体はある意味悲しい結末を迎えるのですが、このMADにはそれを踏まえた上での救いが控えめに加えられていますよね。そこもポイントだ。
*
そんなことを書こうかと考えながら見つけた、ひっそりとあげられた「ココロ・キセキ」。おお、すでに祭りは終わってしまったのに、こっちも作ったのか、と思わずポチリ。
これはやばい。「ココロ」PVもいくつか見て、「ココロ・キセキ」のPVもいくつか見て、先の矢夜雨版「ココロ」も「綺麗に作ったなぁ…」という感想で冷静に見られていたはずなのに、このアンサーソングであるところの「ココロ・キセキ」では涙を抑えることができない。
手法は先の「ココロ」と同じはずなのに、繰り返しによるフィルターが自分の中にあるのか、歌詞の内容がダイレクトに自分の中に入ってくるんですよね。
思うに、「ココロ」は叙事詩、「ココロ・キセキ」は抒情詩。純粋無垢な存在を作ったその孤独な科学者が、自分の孤独さを思いながら孤独を知らない存在を作り、彼女が孤独を知ることで得る結果を知りながらも「ココロ」を得るヒントを与えざるを得なかった心情がここにあります。
一抹の申し訳なさを感じながら、でも幾百の時を越えて、「キセキ」によって物語りに救済が生まれるわけで。
だーかーらー、泣くんだってば、こういうのを見ると!w
「Planetalian」で身も世もなく号泣した私は、こういうの本当に弱いです。ロボットに心なんて生まれるわけないじゃん、と思いながらも、「2001年宇宙の旅」のHALのように、意思を持つロボットというテーマは幼い記憶を呼び起こして心に突き刺さるわけなんですよね。心を持った存在が目の前で朽ちていく。それを見ながら流す涙に、それを止める力はないものか。止まる言葉。セピア色の記憶。消える心音。
*
動画につけられたコメントを見たら、どうやら3部作らしいじゃないですか。お、早速見にいかねばと。
でも、あれ?「ココロ」「ココロ・キセキ」に続編なんてあったっけ?
おおおおおおおおおおおおお
そうか!そういうことか!
これはいや、かなり、しかし…
作られたものの思いを感じ、作ったものの心情を知ってきた。しかしそれらは表裏を形成するもので、その時点での融合はない。なぜなら、「思い」が分からなかったからこそ時の流れと物語が生まれたのだから。
2つの物語を終えた時点で、時はまた戻る。重ねられた思いが浮かび上がり、思いが届く。
収束、光、昇華。なぜか涙が止まらない。3度目に起こったのは、まさに「ココロ」が溢れ出す「キセキ」。そんな奇跡が、抑えていた表現の解放により視聴者を充足するわけです。
物語は終わる。思いの発信者はひっそりと消える。でも、その思いは確かに我々の心に残るわけです。4度目はいらない、もう私達は満たされたのだから。再び消える心音、暗転、幕。結末は同じでも、そこに感じる思いは遥かに違う。
いやー、これはすごいものを見た。楽しめた。1作目で過不足なく表現しているな、と思ったら、「ココロ」にまつわる派生すらも作品を重ねることで表現してしまうとは。ニコニコの魅力って、こういう部分にもあるんですよね。なにげない善意で思わぬハプニングとして表現の広がりが生まれるという。そんな感動を再びトレースできたというわけです。
ニコマスとボカロはあまり交流することは今ではなくなってしまいましたが、1作目の「ココロ」を見て何かを感じたら、この連作は見ないと損! アイマス厨を名乗るなら、押さえておくべき逸品ですよ!
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