ですよねー。
うん、終わらないよね。いや、でもね、ちょっと期待してしまったんだ。あれ?今回はちょっと予感が強いんじゃない?って。
そしていつもの通りの展開が待っていて、残り時間が少なくなっていき、いつものようにハルヒを引き止められなくて。む、これって夏休みの終わりにSOS団が感じた思いそのまんまなのかな。
最後ではやっぱり笑ってしまうんだけど、いつにも増して印象が薄かったような・・・。
そんな回。
*
ここで書くことがあるのか? といぶかりながら明日の自分にボールを投げた先週の自分。そのツケがきっちりぱっきり回ってきて、進まぬ筆に忸怩(じくじ)たる思いを抱いています。おのれ、先週の自分。
前回の感想の後、心機一転する意味でも原作を久しぶりに読み返していました。そこでいくつか前回の感想の中に間違いを見つけたのですが、それは後に置いておくとして。
今回・・・ですねえ。
うーん。
うーーーん。
薄い。
「これ」というポイントが見つからなかったんですよねー。
もう「知って」しまっている状態があるために、純粋無垢な気持ちになることは不可能なのですが、他の回がなかったとしても、これ単体で「エンドレスエイト」だと見ても若干物足りなかったような。
印象が薄めだった回は、14回だったり、16回だったりと今までも複数ありました。12回から数えて、それぞれの回を繰り返し視聴する回数が減っているために、初期の回のほうが印象が強くなることを差し引いて考えても、今回は心に残ったシーンというものが今のところないんですよね。
気になったのは全体的な絵柄の可愛さと、最初に長門を引き止めるシーン、「予感」描写の強めな描き方、ラストのシーンのフィルムの版ズレ?でしょうか。
とはいえ、それらのショッキングな描写はこれまでに数回演出されているために、これも初見の衝撃という観点からすればややインパクトに欠けてしまう。うーむ、健全な感想じゃないなあ・・・。
「予感」が強めに描かれていると感じられるのは、きっと意図的な繰り返しの描写が含まれているからなのでしょう。ただし、そういった「デジャヴュ」の実際の感じ方というのは、とても瞬間的であるはずなので、シーンの繰り返しとして演出すると、ややもっさり感を覚えてしまうことになる。そういった点では、ラストの色ズレの演出は面白いな、と思うのですが、シークエンスの全体にわたって何度かデジャヴュのシーンが出て来るために、毎回同じ演出をするわけにもいきませんしね。
もう一つ印象的だったのは、役者さんの演技のアドリブ具合でしょうか。しかし、これについても個人的に余り好みでなかったというか・・・。
アドリブが感じられる、ということは、スタンダードな演技から外れているということで、それを「感じて」しまうということは、些少の違和感を覚えていることになる。絵柄を見ている印象と、演技から受ける印象がやや異なっている、ということになるでしょうか。
この辺り、難しいなあ、とは思うんです。役者さんだけは、毎回同じシーンを繰り返していることを「知っている」わけですしね。それを意識的に排除して、ノーマルな演技をしなければいけないわけで。
でもでも、「芝居」って本来そういう性質をもったものですしね。同じ脚本に基づく芝居が、何百回と演じられることも珍しくはない。ただし、アニメーションだと若干環境が変わってしまうわけで、ある役者がアドリブで演技を変えることがあって、それに別の役者があわせたということがあっても、「絵」がそれに順応することができない。制作を遅らせて、最初に役者さんのアドリブが演じられ、それに合わせた絵作りがなされたならば、それは相乗効果を見せることでしょうが、一般的にはそれは効率的ではなく、手間がかかりすぎるために毎週放映されるテレビアニメのレベルでは実現が極めて難しいと。
「芝居」ということに関して言えば、以前、この競作?を「ガラスの仮面」に例えたことがありました。同じ筋の演劇を、演技を変えることでまったく別のものにする試みがなされ、それが成功すると、スタンダードに演じた場合よりも、大きな感動を得られる可能性がある。
今回の演技は、「コミカル」な方向性を持ったものだとは思いました。ただし、それが筋立てをまったく別のものに作り変えて新たな感動を作り出したか、と言えばそれほどではない。よって、極めて宙ぶらりんな形に感じられたのではないかと思うのです。
・・・と、文章で書くとえらくキツイ感じになってしまいますが、別に嫌に思っているわけではないんですよねw 全体的に、なーんか印象が薄いな、というくらいのものであるというのは、最初に述べたとおりです。
そうなんですよね、「お芝居」として考えるならば、何度も繰り返し演じられることに何の不思議もない。それが、よく上がっている感想を見るにつけて「しんどい」という印象のものが多いというのはなぜなのだろう、と考えてみるに、やはりラストにカタルシスがないからなのでしょうね。
お芝居に限らず、楽しかったものは何度も繰り返して見てしまうものです。何度も繰り返して話の筋を覚えてしまっても、初見の衝撃が薄れてしまったとしても、「面白さ」を感じる思いが消えることはない。いつかどこかで見たような、数十年にわたって繰り返されるドラマを見る時もそうなのでしょう。ある「結末」が、今回も同じタイミングで演じられることに、観客は安心感すら覚えるわけで。
エンドレスエイトのループには、それがありませんしね。見せられるのは、無力感、閉塞感。すでに1万数千回を繰り返して、しかし自分に過去の記憶がないために、また何もできないでいるキョンの姿、すべてのことに興味を失ってベッドに倒れこむ姿が、視聴後の感想に影響を与えているのではないでしょうか。
自分としては、何度も述べているとおり、不愉快には思っていない。でも、全体的なシーンに「眠さ」を感じているのは確かです。刺激的なシーンは、前回よりも刺激がなければ「刺激的」だとは感じられない。うーん、これってハードルがどんどん上がっていってるってことですよねw
これはあちこちで言われているように、「長門の視点」なんでしょうね。「サムデイインザレイン」で何も起きない(起こっているけど)3分間の演出があって、それを長門が待機モードだった3年間になぞらえていたのだという話がありましたが、600年間の閉塞感、孤独感、無力感のミニチュアを表現しているの・・・かなあw
*
前回の感想の中での間違いについて。
「何で長門はこのループをやめさせないのか」という疑問に対して、「長門には多分終わりが見えている」と書きましたが、これは間違いだったようです。原作には、そのものずばり、長門に対して解決策を尋ねるシーンがありました。それについて長門は、「わからない」と答えているんですよね。
これまでの(時系列上でこのエンドレスエイトまでの)話からして、長門は「知っていることを告げない」ということはあったとしても、「明らかに事実と異なることを言う」ことはなかったと思います。長門が無口であることの理由付けとしても、「憂鬱」の中でキョンに対して饒舌に身の上を語った際に「情報の伝達に齟齬(そご)を来たすかもしれない」と話していますから、長門は多分、不確定要素が多くて推測だけで語ることに抵抗があったり、自分の認識している事物を言語として伝えることで、相手が勘違いをする可能性があるような伝え方を好んでいないということが想像できます。
これは、長門の属性が「情報」であることにも関わってくるのでしょうが、すなわち、長門は本当に解決策を知らない可能性が高い。となると、やや事情が異なってきますよね。
ただ、以前にも述べたとおり、朝比奈さんが消えてないことからして、完全に「未来がなくなった」わけではなく、いつか正常な時空に戻ることは規定事項であるはずで、自律進化の可能性が絶たれていないことから長門が、あるいは情報統合思念体が「エマージェンシー」だと判断せず、観測のみの対応を行っているとは推測できます。そして、記憶が連続していることからして、長門と情報統合思念体のつながりが完全に絶たれているのではないだろうことも、類推の範囲内です。
エンドレスエイトの放映はこれで7回目、時間にして2.5時間ほどを経験したことになりますが、その中で感じた退屈の延長線上に彼女はいることになりますね。打開方法はわからない、いつまで続くかはわからない、その繰り返しの「意義」も多分知らされてはいない。
常人だったら確実に耐えられませんし、同じインターフェースでも朝倉辺りでは耐え切れないのではと思うのですが、原作内での描写に、キョンが長門の無表情に対して意味を感じる部分があって、「意図的に感情表現がブロックされている」というような文章がありまして。これは、長門の造物主である情報統合思念体が、彼女の役割である「観測」に対して、それに必要ではない機能をカットしたのだと考えがちなのですが、その実、こういった事態を予測した上での防御機構だったのかもしれないと、今ではそう思えてくるわけですね。
原作にもなかったアニメ版「エンドレスエイト」の繰り返しでは、前回も述べた部分で「繰り返されているもの」が見えてくるという構造になっています。原作では成功シークエンスしか表現されなかったために、長門のセリフ以外には、「繰り返されたもの」が判明しなかったわけでして。長門のセリフの中での繰り返しから判断すると、ハルヒの意志がより強く反映されたものが多く繰り返されているように感じられます。例えば市民プールや盆踊り。行動心理学には明るくないのでなんともいえませんが、1万数千回繰り返しても、それらはぶれていない。同じ条件下の繰り返しの試行でまったく同じ結果を得られるということは、ハルヒは強くそれが「したい」と思っているわけで、ループの後半にしたがってそれがブレてくるということは、「あと何をすればいいだろう」と考える瞬間が存在しているということで、そこに差異が出てきていると。
長門の場合は、事情が違います。彼女の場合は、すべての行動に、その意志が影響するわけですよね。「長門がしている」ということは、必ず明確な意思を持ってなされている。今回のアニメ化においては、「必ずお面を買っている」ことがはっきりと表現されているわけで、これは原作で表現し得なかった部分であるということです。
キョンに「食い物はいるか」と声をかけられ、お面売り場を見つけ、キョンの支払いの申し出を断って「宇宙人」のお面を買う。たったこれだけのことを、長門は1万5千回以上も、盆踊りにハルヒが行く限りは繰り返しているわけで、たったこれだけの風景を丁寧に繰り返しながら、長門は600年間を過ごしている。そして、長門がそれを「繰り返している」ということを、彼女以外に知る者はいないのです。
*
次回!「エンドレスエイト(多分)」。
いや、本当に8回で終わるか、これ?w
へたしたら8月中ずっと続くんじゃないのかw
いくら京アニでも、制作チームが一巡してまだ同じものを(それも演出だけ変えるという荒業で)作るなんてことはできな・・・、いやいや、ここまできたらもう何がきても驚かないような覚悟をしておくよ!
ここで書くことがあるのか? といぶかりながら明日の自分にボールを投げた先週の自分。そのツケがきっちりぱっきり回ってきて、進まぬ筆に忸怩(じくじ)たる思いを抱いています。おのれ、先週の自分。
前回の感想の後、心機一転する意味でも原作を久しぶりに読み返していました。そこでいくつか前回の感想の中に間違いを見つけたのですが、それは後に置いておくとして。
今回・・・ですねえ。
うーん。
うーーーん。
薄い。
「これ」というポイントが見つからなかったんですよねー。
もう「知って」しまっている状態があるために、純粋無垢な気持ちになることは不可能なのですが、他の回がなかったとしても、これ単体で「エンドレスエイト」だと見ても若干物足りなかったような。
印象が薄めだった回は、14回だったり、16回だったりと今までも複数ありました。12回から数えて、それぞれの回を繰り返し視聴する回数が減っているために、初期の回のほうが印象が強くなることを差し引いて考えても、今回は心に残ったシーンというものが今のところないんですよね。
気になったのは全体的な絵柄の可愛さと、最初に長門を引き止めるシーン、「予感」描写の強めな描き方、ラストのシーンのフィルムの版ズレ?でしょうか。
とはいえ、それらのショッキングな描写はこれまでに数回演出されているために、これも初見の衝撃という観点からすればややインパクトに欠けてしまう。うーむ、健全な感想じゃないなあ・・・。
「予感」が強めに描かれていると感じられるのは、きっと意図的な繰り返しの描写が含まれているからなのでしょう。ただし、そういった「デジャヴュ」の実際の感じ方というのは、とても瞬間的であるはずなので、シーンの繰り返しとして演出すると、ややもっさり感を覚えてしまうことになる。そういった点では、ラストの色ズレの演出は面白いな、と思うのですが、シークエンスの全体にわたって何度かデジャヴュのシーンが出て来るために、毎回同じ演出をするわけにもいきませんしね。
もう一つ印象的だったのは、役者さんの演技のアドリブ具合でしょうか。しかし、これについても個人的に余り好みでなかったというか・・・。
アドリブが感じられる、ということは、スタンダードな演技から外れているということで、それを「感じて」しまうということは、些少の違和感を覚えていることになる。絵柄を見ている印象と、演技から受ける印象がやや異なっている、ということになるでしょうか。
この辺り、難しいなあ、とは思うんです。役者さんだけは、毎回同じシーンを繰り返していることを「知っている」わけですしね。それを意識的に排除して、ノーマルな演技をしなければいけないわけで。
でもでも、「芝居」って本来そういう性質をもったものですしね。同じ脚本に基づく芝居が、何百回と演じられることも珍しくはない。ただし、アニメーションだと若干環境が変わってしまうわけで、ある役者がアドリブで演技を変えることがあって、それに別の役者があわせたということがあっても、「絵」がそれに順応することができない。制作を遅らせて、最初に役者さんのアドリブが演じられ、それに合わせた絵作りがなされたならば、それは相乗効果を見せることでしょうが、一般的にはそれは効率的ではなく、手間がかかりすぎるために毎週放映されるテレビアニメのレベルでは実現が極めて難しいと。
「芝居」ということに関して言えば、以前、この競作?を「ガラスの仮面」に例えたことがありました。同じ筋の演劇を、演技を変えることでまったく別のものにする試みがなされ、それが成功すると、スタンダードに演じた場合よりも、大きな感動を得られる可能性がある。
今回の演技は、「コミカル」な方向性を持ったものだとは思いました。ただし、それが筋立てをまったく別のものに作り変えて新たな感動を作り出したか、と言えばそれほどではない。よって、極めて宙ぶらりんな形に感じられたのではないかと思うのです。
・・・と、文章で書くとえらくキツイ感じになってしまいますが、別に嫌に思っているわけではないんですよねw 全体的に、なーんか印象が薄いな、というくらいのものであるというのは、最初に述べたとおりです。
そうなんですよね、「お芝居」として考えるならば、何度も繰り返し演じられることに何の不思議もない。それが、よく上がっている感想を見るにつけて「しんどい」という印象のものが多いというのはなぜなのだろう、と考えてみるに、やはりラストにカタルシスがないからなのでしょうね。
お芝居に限らず、楽しかったものは何度も繰り返して見てしまうものです。何度も繰り返して話の筋を覚えてしまっても、初見の衝撃が薄れてしまったとしても、「面白さ」を感じる思いが消えることはない。いつかどこかで見たような、数十年にわたって繰り返されるドラマを見る時もそうなのでしょう。ある「結末」が、今回も同じタイミングで演じられることに、観客は安心感すら覚えるわけで。
エンドレスエイトのループには、それがありませんしね。見せられるのは、無力感、閉塞感。すでに1万数千回を繰り返して、しかし自分に過去の記憶がないために、また何もできないでいるキョンの姿、すべてのことに興味を失ってベッドに倒れこむ姿が、視聴後の感想に影響を与えているのではないでしょうか。
自分としては、何度も述べているとおり、不愉快には思っていない。でも、全体的なシーンに「眠さ」を感じているのは確かです。刺激的なシーンは、前回よりも刺激がなければ「刺激的」だとは感じられない。うーん、これってハードルがどんどん上がっていってるってことですよねw
これはあちこちで言われているように、「長門の視点」なんでしょうね。「サムデイインザレイン」で何も起きない(起こっているけど)3分間の演出があって、それを長門が待機モードだった3年間になぞらえていたのだという話がありましたが、600年間の閉塞感、孤独感、無力感のミニチュアを表現しているの・・・かなあw
*
前回の感想の中での間違いについて。
「何で長門はこのループをやめさせないのか」という疑問に対して、「長門には多分終わりが見えている」と書きましたが、これは間違いだったようです。原作には、そのものずばり、長門に対して解決策を尋ねるシーンがありました。それについて長門は、「わからない」と答えているんですよね。
これまでの(時系列上でこのエンドレスエイトまでの)話からして、長門は「知っていることを告げない」ということはあったとしても、「明らかに事実と異なることを言う」ことはなかったと思います。長門が無口であることの理由付けとしても、「憂鬱」の中でキョンに対して饒舌に身の上を語った際に「情報の伝達に齟齬(そご)を来たすかもしれない」と話していますから、長門は多分、不確定要素が多くて推測だけで語ることに抵抗があったり、自分の認識している事物を言語として伝えることで、相手が勘違いをする可能性があるような伝え方を好んでいないということが想像できます。
これは、長門の属性が「情報」であることにも関わってくるのでしょうが、すなわち、長門は本当に解決策を知らない可能性が高い。となると、やや事情が異なってきますよね。
ただ、以前にも述べたとおり、朝比奈さんが消えてないことからして、完全に「未来がなくなった」わけではなく、いつか正常な時空に戻ることは規定事項であるはずで、自律進化の可能性が絶たれていないことから長門が、あるいは情報統合思念体が「エマージェンシー」だと判断せず、観測のみの対応を行っているとは推測できます。そして、記憶が連続していることからして、長門と情報統合思念体のつながりが完全に絶たれているのではないだろうことも、類推の範囲内です。
エンドレスエイトの放映はこれで7回目、時間にして2.5時間ほどを経験したことになりますが、その中で感じた退屈の延長線上に彼女はいることになりますね。打開方法はわからない、いつまで続くかはわからない、その繰り返しの「意義」も多分知らされてはいない。
常人だったら確実に耐えられませんし、同じインターフェースでも朝倉辺りでは耐え切れないのではと思うのですが、原作内での描写に、キョンが長門の無表情に対して意味を感じる部分があって、「意図的に感情表現がブロックされている」というような文章がありまして。これは、長門の造物主である情報統合思念体が、彼女の役割である「観測」に対して、それに必要ではない機能をカットしたのだと考えがちなのですが、その実、こういった事態を予測した上での防御機構だったのかもしれないと、今ではそう思えてくるわけですね。
原作にもなかったアニメ版「エンドレスエイト」の繰り返しでは、前回も述べた部分で「繰り返されているもの」が見えてくるという構造になっています。原作では成功シークエンスしか表現されなかったために、長門のセリフ以外には、「繰り返されたもの」が判明しなかったわけでして。長門のセリフの中での繰り返しから判断すると、ハルヒの意志がより強く反映されたものが多く繰り返されているように感じられます。例えば市民プールや盆踊り。行動心理学には明るくないのでなんともいえませんが、1万数千回繰り返しても、それらはぶれていない。同じ条件下の繰り返しの試行でまったく同じ結果を得られるということは、ハルヒは強くそれが「したい」と思っているわけで、ループの後半にしたがってそれがブレてくるということは、「あと何をすればいいだろう」と考える瞬間が存在しているということで、そこに差異が出てきていると。
長門の場合は、事情が違います。彼女の場合は、すべての行動に、その意志が影響するわけですよね。「長門がしている」ということは、必ず明確な意思を持ってなされている。今回のアニメ化においては、「必ずお面を買っている」ことがはっきりと表現されているわけで、これは原作で表現し得なかった部分であるということです。
キョンに「食い物はいるか」と声をかけられ、お面売り場を見つけ、キョンの支払いの申し出を断って「宇宙人」のお面を買う。たったこれだけのことを、長門は1万5千回以上も、盆踊りにハルヒが行く限りは繰り返しているわけで、たったこれだけの風景を丁寧に繰り返しながら、長門は600年間を過ごしている。そして、長門がそれを「繰り返している」ということを、彼女以外に知る者はいないのです。
*
次回!「エンドレスエイト(多分)」。
いや、本当に8回で終わるか、これ?w
へたしたら8月中ずっと続くんじゃないのかw
いくら京アニでも、制作チームが一巡してまだ同じものを(それも演出だけ変えるという荒業で)作るなんてことはできな・・・、いやいや、ここまできたらもう何がきても驚かないような覚悟をしておくよ!
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